社会で子どもを育てる
令和5年度(2023年度)予算の成立に引き続き、少子化に対する「異次元」の施策のたたき台が発表されました。どうしてこれまで十分な対策を打ってこなかったのかという批判や財源はどうするのかという問題はありますが、少子化が国の課題としてこれほど大きく取り上げられたのは初めてのような気がします。
これまでともすれば子育ては親の責任と考えられがちでした。しかし深刻な少子化と向き合う中で、「社会で子どもを育てる」ということが言われるようになりました。かなり以前になりますが、平成17年版(2005年)の『国民生活白書』に「子育ての社会化」ということばが登場していました。「子育ての社会化」というのは、子育てを家庭内の「私事」ではなく、政府、自治体、地域社会も関与すべき「公事」にすることを意味しています。平たく言うと子育てを家族の責任だけで行われるものから、社会全体で取り組むものにして行こうということなのでしょう。
この白書の「むすび」では、「親世代だけでなく、同世代の友人、あるいは会社の同僚、近隣に住む人々など、社会全体で何らかの子育てに参加する、あるいはそれができる仕組みを構築していくことが望まれる」と記されています。
それでは「子育ての社会化」のために自分は何ができるのか、何をすべきなのか?どのような形で実際に子育てに参加できるのか?「子育ての社会化」の意義はよくわかるものの、具体的な行動となると迷います。
「子育て」を分解してみるといくつかの要素に分かれます。まずなんと言っても子どもの世話、特に時間も手間もかかる日々の育児(子どものための調理や掃除、洗濯も含めて)があります。次に子育てにはお金がかかるとしばしばいわれるように子どもを育てるための費用の問題も大きいです。そして子どもが社会の中で他者との関係を築き、しっかり生きていくために必要な知識や規範を身につけるための教育も大切な要素です。
子育ての社会化というのは、これらの要素、世話、費用、教育を社会全体で様々な制度により担っていくことと理解してもよいのではないでしょうか。
今70代のシニアが子どもだった頃、大学受験の予備校を除けば塾に通うことはまれでした。そもそも中学受験は一般的ではありませんでした。ピアノなどのお稽古事も例外的だったし、水泳教室もサッカークラブもほとんどありませんでした。ましてや学校外の英語塾に通うなど夢のまた夢。子育てにはそれなりのお金は必要でしたが、今と比較すれば学校以外の費用はかけずに済ませることもできました。
放っておいても子どもは育つ、とまでは言わないにしても、それぞれが能力や適性に応じて教育を受け、それなりの仕事を得ることができた時代だったように思います。そして多くの母親は仕事を持たず、家で専ら家事、育児を担っていました。近所のおばさんやおじさんも子どもに声をかけてくれたり、ちょっとした面倒をみてくれることもありました。
複雑で高度化した今の社会では全てにおいて求められるものの質がより高く、量がより多くなっているような気がします。子育てもしかりです。
子育ての環境が大きく変わった今、全ての負担を親だけに負わせることはどうみても無理があります。国としての施策はきわめて重要ですが、個人としても子どもの世話、子どものためのお金、そして子どものための教育、これらの中で自分ができる何かをしてみようと考えてもよいのではないでしょうか。
保育士や保育補助として保育園で子どもたちの面倒を見るシニア、子どもを支援するNPOに年金の中からささやかな寄付をするシニア、登下校の子どもたちを見守るシニア、子どもの居場所で子どもたちと遊んだり、勉強を手伝うシニア。そして育ジイや育バアとして忙しい毎日を送るシニア。
孫がいてもいなくても、シニアにもできることはありそうです。