役割なき役割

「役割とは居場所のことなのですよ」。先日たまたま聞きにいった講座の講師のことばに思わず頷きました。
年をとると役割が消えていくというのは多くのシニアが感じることでしょう。特に長い間企業等の組織で働いてきた人は、まず管理職定年で管理職という役割から離れ、その後定年退職でそれまで果たしてきた会社での役割からも離れることになります。定年後再雇用で会社に残ったとしても定年前とは異なる役割を求められるかもしれません。
再雇用契約を終えて完全に会社組織から離れた後は自分で新しい役割を探したり、作り出していかない限りはちょっとした喪失感を味わうことになります。
ただちょっと考えてみると会社での役割は公的なもので、それ以外にも私たちは個人としての私的な役割をいくつか持っています。
私的な役割の代表的なものが家族の中での役割です。妻または夫としての役割、親の役割、孫に対する祖父母としての役割、さらには親が存命のシニアであれば子としての役割もあります。
友だちとしての役割も私的な役割の一つです。時間の経過とともに学生時代の仲間や昔の同僚などとの関係が疎遠になっていた場合でも、リタイア後に同窓会やクラス会に出るようになって友人関係が復活するということもあります。折に触れて友だちに手紙を書くことやメールを送ることをあなたの役割にすることもできるでしょう。
リタイア後のシニアにとってボランティアは数少ない公的な役割のひとつになりえます。とは言っても自分から動いてボランティアとしての活動の場を探し、そこで自分ができる役割をつくっていく必要があります。シルバー人材センターなどに自ら出向いて説明を聞いてみると、活動の場や新しい仕事と出会うことができるかもしれません。
忘れられがちなのが市民としての役割です。市民として地域の活動に参加したり、政治的な関心を日頃から持って選挙の時には投票に行くのも市民としての役割と言えます。
キリスト教国では教会が1つのコミュニにティーを形成しているので、そこで自分の役割を見つけることもできるのでしょう。日本の場合は宗教が日常生活の中で果たす役割はあまり大きくはないですが、例えば檀家や氏子として寺社を支える役割を担うことはできます。
今から半世紀も前にE. バージェス (E. Burgess)いう社会学者が高齢者の役割がないことを「役割なき役割 (roleless role)」と表現したそうです。高齢者が社会の中で役割を失ってしまうのは昔も今も変わらないということなのでしょうか。
自営など自分で仕事をしていれば健康が続く限りは「役割なき役割」状態になることはありません。組織に雇われているからこそリタイア後に「役割なき役割」状態が生じてしまうのです。多くの人が農業などに従事していた時代にはいつまでも役割を持ち続けられたはずです。
現在は人手不足や経済的事情などから高齢になっても働く人は増えています。働く場があるということはどこかに所属してそこで自分の公的な役割を果たせるということです。少子化や高齢者の経済状況などの社会的背景はあるものの、長く働くことがシニアにとって一つの意味ある選択肢になり、「役割なき役割」状態となるのを引き延ばすことができます。
独身であるとか、配偶者や子、孫との関係性など家族の状況によっては私的な役割を持ちにくい場合もあるかもしれません。その場合でも何かの楽しみや趣味の場での小さな役割を持つことはできるはずです。例えば大学の講座に通う学習者としての役割、孫のような世代の先生からピアノを習う生徒の役割。ベランダの小さなプランターでトマトを育てるミニ農業者の役割。仮に入院したとしても患者としての役割があるのかもしれません。
自分の今の役割(あるいは役割のないこと)は、自分の過去の役割からつながっていて、これは自分の未来の役割にも結びついていきます。やがていつかは「役割なき役割」の人生と向き合う日が来るかもしれませんが、まずは今の役割を持つことから始めてはどうでしょうか。
そしてシニアとして忘れてはならないこと、仮にいつか役割を失うことがあっても、それによって自分のアイデンティティを失うわけではない、それをしっかり心に刻んでおきたいものです。